

ウクライナ保安庁(SBU)は24日、ロシア軍が運用する戦略的な重要性を持つIl-38N海上哨戒・偵察機を無力化したと発表し、その証拠となる映像を公開した。この航空機はロシア海軍の対潜水艦戦(ASW)および広域的な海洋監視活動における中核的な資産であり、その損失は単なる装備の破壊に留まらず、黒海戦域におけるロシア側の作戦遂行能力、特に「水中戦」における脆弱性を一気に露呈させる重大な意味を持つ。
Il-38N哨戒機


無力化されたIl-38Nは、旧ソ連時代にイリューシン設計局が開発したIl-38を、最新技術で大規模に近代化した最新鋭の改良型である。ロシア国内では搭載する統合センサー・システムにちなんで「ノヴェラ(Novella)」の愛称で呼ばれている。機首に特徴的な平板状の大型アンテナを装備している点が外見上の大きな特徴であり、これにより従来のIl-38と一線を画す高度な対潜・海洋監視能力を獲得している。Il-38Nの主な任務は多岐にわたるが、その中でも特に重要視されてきたのは、海上および水中の無人機を探知・追跡する能力である。具体的には、以下の任務を遂行する。
- 潜水艦の捜索・追跡: 広範囲の海域で潜水艦を探知し、その動向を追尾する。
- 海上目標の広域監視: 艦船、特に水上目標の動きを広範囲にわたって監視する。
- 機雷敷設の支援: 戦域における機雷敷設作戦の支援と監視を行う。
- 対潜攻撃支援: 対潜ヘリコプターや水上戦闘艦に対する目標情報の提供を行う。
ノヴェラ・システムは、半径320kmという広大な範囲において、水上、水中、さらには氷上の目標までも探知可能とされる高い探知能力を有しており、独自の無線偵察装置も搭載することで情報収集能力も高い。近年、ウクライナが開発・投入を加速させている水上ドローン(USV)や水中ドローン(UUV)といった非対称兵器に対し、ロシア側にとってIl-38Nは、広域かつ迅速に脅威を探知できる数少ない、そして最も有効な対抗手段として機能してきた。日本近海でも時折偵察飛行が確認されており、2024年9月23日には北海道領空への一時的な進入も確認されている、極東においても重要な航空資産である。
攻撃の詳細
СБУ перед підривом підводного човна в Новоросійську уразила морський літак-розвідник Іл-38Н
— Цензор.НЕТ ✍️ (@censor_net) December 23, 2025
"Служба безпеки України розкрила раніше невідомі деталі підготовки до підриву російського підводного човна в порту Новоросійськ.
Одним із ключових етапів цієї спецоперації стало… pic.twitter.com/ZyaW4eW2ql
SBUの発表によれば、Il-38Nはロシア南部の拠点であるイェイスク空軍基地において攻撃を受けた。ウクライナ側が使用したのは、約2,000個もの下向きの破片を含んだ空中爆発弾頭を搭載した長距離飛行能力を持つ最新式の攻撃ドローンである。攻撃は、機体付近での空中爆発という形で行われたとされ、この爆発により生じた破片や衝撃波が、機体の核となる以下の部分に「深刻な損傷」を与えたとされる。
- レーダー・センサー装備系統: 海洋監視能力の根幹となるノヴェラ・システムの主要コンポーネント。
- 電子装備系統: 通信、ナビゲーション、データ処理を担うシステム。
- エンジン系統: 飛行能力そのもの。
ウクライナ側は、この攻撃によりIl-38Nを「破壊または完全に戦闘不能にした」と主張しており、仮に完全な破壊に至っていなくとも、長期にわたる大規模な修復作業なしには運用に復帰できない状態に追い込んだ可能性が高い。
今回のIl-38N無力化作戦が、軍事専門家やアナリストの注目を集める最大の理由は、その直後にウクライナが実施した潜水艦攻撃作戦との密接な関連性にある。ウクライナは、Il-38N攻撃とほぼ同時期に、黒海東沿岸の重要な海軍拠点であるノヴォロシースク海軍基地に停泊していた黒海艦隊の改キロ級潜水艦に対し、水中ドローン「Sub Sea Baby」を用いた攻撃を実施したと発表した。
ウクライナ側の戦略的な説明は明確である。彼らは、高性能な監視能力を持つIl-38Nが、水中ドローンによる潜水艦への接近を探知し、その攻撃を未然に防ぐ「番人」として機能する可能性があったと見ている。そのため、潜水艦への決定的な打撃を成功させるための前提条件として、その監視能力を担うIl-38Nを先に排除する「事前制圧作戦(SEAD:Suppression of Enemy Air Defensesの概念の応用)」を実施したという。これは、単に航空機や艦艇を直接攻撃する従来の戦闘形態から一歩進んだ、より高度で戦略的な作戦計画の実行を示唆している。これは、制空権を巡る争いだけでなく、制海権、そして特に「敵の対潜・海洋監視能力そのもの」を狙い撃ちにする、新しい形の航空攻撃と位置づけられる。黒海艦隊への影響:監視能力の決定的な空白
Il-38Nは、ロシア海軍にとって「数が限られた特殊機」であるという点で、その損失の影響は甚大である。高度なセンサーと電子機器を搭載しているため、西側からの厳しい経済制裁下では代替品の生産や修復は極めて困難であり、代替が容易ではない。さらに重要な情報として、黒海戦域に配備されていたIl-38Nはこの1機のみだったと伝えられている。この無力化が黒海艦隊にもたらす影響は、以下の通りである。
- 海上・水中監視能力の劇的な低下: 広域監視を担う中核的なアセットの喪失により、特に遠隔海域での情報収集能力が大幅に低下する。
- 水中ドローンに対する警戒網の空白: ウクライナのUSV/UUV攻撃に対する早期警戒の要を失い、海軍基地や停泊中の艦艇、航行中の潜水艦が水中ドローンに対してより脆弱となる。
- 潜水艦の安全な運用範囲の縮小: 監視機の援護を失うことで、ロシア海軍の潜水艦はより安全性の低い海域での行動を強いられ、結果として運用範囲が限定される可能性がある。
黒海艦隊は、既にウクライナの無人機・ミサイル攻撃により、旗艦を含む複数の主要艦艇を失っており、今回の対潜・対無人機能力の低下は、艦隊の戦闘能力と士気にとって致命的なリスク要因となり得る。
今回の事例は、ウクライナ戦争における無人機(ドローン)の使用が、新たな戦略的段階に突入したことを明確に示している。従来、無人機は「敵の艦艇や基地を直接攻撃する」という戦術的役割が中心であった。しかし、今回の作戦では、「敵の監視・探知能力を先に破壊することで、その後の(より決定的な)無人機攻撃を成功させる」という、より高度で体系的な、作戦レベルの戦略が初めて確認された。
Il-38Nはロシア海軍にとっての「重要な目」であり、それが後方基地で破壊された事実は、黒海艦隊に強い心理的影響を与える。水中ドローンによる攻撃の脅威が明らかになった今、それを広範囲に防ぐ術の一つを失ったことは、黒海艦隊の行動計画に大きな制約を与える。また、西側の経済制裁を回避して行われている「影の船団」による原油輸出についても、ウクライナによるタンカー攻撃の脅威が続く中で、状況はさらに厳しさを増すことが予測される。黒海戦域では今後も、水上艦艇、潜水艦、航空機、そして無人機が複雑に絡み合う「立体的な消耗戦」が続くと予想され、Il-38Nの喪失はその流れを加速させる決定的な一撃となる可能性が高い。
