

タイ王国海軍は保有する同国唯一の航空母艦「HTMS チャクリ・ナルエベト(Chakri Naruebet)」の大規模な近代化改修を決定した。1997年の就役以来、東南アジア唯一の空母として注目を集めてきた同艦だが、運用コストの高さや艦載機の退役により、長年にわたり実質的な“稼働停止状態”にあり、その存在は「王室のヨット」とさえ揶揄されることもあった。しかし、フランスの防衛大手タレス(Thales)との改修契約が締結されたことで、この特異な艦船の再活性化に向けた動きが本格化し、国内外から再び大きな注目を集めている。
Thales to Upgrade the Royal Thai Navy’s HTMS Chakri Naruebet Aircraft Carrier
今回の改修の柱となるのは、艦の主要な機関系統をデジタルで統合管理する「統合プラットフォーム管理システム(IPMS)」の導入である。タレス社が2025年10月に発表したプレスリリースによれば、同社はタイの防衛関連企業ユニバーサル・コミュニケーション・システムズ(UCS)と共同で、チャクリ・ナルエベトにIPMSを導入する契約を締結した。このシステムは、艦内の推進システム、電気系統、補機、そしてダメージコントローなど、航行と安全保障に不可欠な中枢機能をデジタルで統合監視・制御するものであり、艦齢30年近くを迎える同艦の老朽化対策、運用の効率化、そして何よりも安全性の大幅な向上を主眼としている。
タイ王国海軍関係者は、このIPMS導入が単なる寿命延長措置に留まらず、艦の運用柔軟性を将来にわたって確保するための重要な一歩であると強調する。改修作業は今後数年間にわたり段階的に進められ、最終的には同艦を「現代的な海軍艦艇の標準へ引き上げる」ことを目標としている。
空母チャクリ・ナルエベト
チャクリ・ナルエベトは、スペイン海軍の軽空母「プリンシペ・デ・アストゥリアス」をベースに設計された排水量約1万1000トンの小型空母であり、スペインのバサン(現ナバンティア)造船所で建造された。全長182m、特徴的なスキージャンプ甲板を備え、就役当初は垂直離着陸機(V/STOL機)であるハリアーAV-8Sを艦載機として運用していた。しかし、旧型であったハリアーは2006年に全て退役。その後、同艦は固定翼機を搭載することなく、主にシーキングやS-70Bシーホークなどのヘリコプターを運用する多用途ヘリコプター母艦として、災害救援活動、海上哨戒、そして王室行事などのための儀礼的な利用に限定されてきた。高い燃料費と整備コストが常につきまとい、実戦部隊としての艦隊運用は非常に限られたものとなっていたのが実情である。
今回のアップグレードは、こうした「儀礼的存在」としての役割から脱却し、再びタイ海軍の作戦艦隊における中核としての地位を取り戻すことを目指している。海軍幹部は現地メディアに対し、「チャクリ・ナルエベトを再び作戦艦隊に組み戻すための第一歩であり、艦隊の旗艦としての指揮通信機能の強化も視野に入れている」と述べている。この発言は、IPMSの導入に加え、C4I(指揮・統制・通信・コンピューター・情報)能力の強化にも重点が置かれていることを示唆している。現在、タイ海軍の艦艇の80%以上に、レーダー、ソナー、機雷探知システム、射撃管制システム、指揮統制(C2)システムなど、タレスの各種機器が搭載されているが、IPMSの導入は初であり、今回の改修で艦全体のネットワーク化と情報共有能力が大幅に向上する見込みである。
固定翼機の再導入か、UAV母艦への進化か
今回の改修で関心を集めているのが、同艦が再び固定翼機を運用する「空母」に戻るかどうかという点である。現時点では、固定翼機の再導入計画は公式には発表されていない。タレス社との契約内容も機関・電気系統の改修に留まっており、飛行甲板や航空管制システムといった、航空運用に直結する部分の大幅な更新については言及されていない。
固定翼機、特にV/STOL機を再導入するには、アメリカのF-35Bのような高額な機体を購入することが前提となるが、コストや運用面でのハードルがあまりにも高いと指摘されている。F-35Bの単価は1億ドルを超え、タイの防衛予算で複数機を導入し、さらにパイロットの育成や整備体制を構築することは非常に困難である。加えて、チャクリ・ナルエベトの既存の飛行甲板やエレベーターは、F-35Bの強力な排熱や重量に対応しておらず、大規模で費用のかかる構造改修が不可欠となる。また、タイはF-35Aの購入要求をアメリカ側に拒否されており、F-35Bの入手は現時点ではほぼ不可能と見られている。
タイ海軍内部では、将来的に無人航空機(UAV)や新型哨戒ヘリコプターの運用能力を拡充する構想が具体的に検討されているとされる。海軍はすでに中国製やイスラエル製の中型UAVを導入しており、これらを洋上母艦から運用できる体制を整備することが、最も現実的で実現可能性の高い次世代構想と見られている。チャクリ・ナルエベトの再生は、「軽空母」としての役割を取り戻すというよりも、「多目的ヘリコプター空母・UAV母艦」としてのアップデートに重点が置かれると考えるのが現実的である。
タイ海軍がこの時期に空母の再生に乗り出す背景には、南シナ海をめぐる安全保障環境の複雑な変化がある。近年、中国が周辺海域での海洋進出を強める中、近隣諸国との関係にも緊張が生じている。さらに、カンボジアが中国との軍事協力関係を深めるなど、地域のパワーバランスが変動している。フィリピンやベトナムも防衛力の増強を進める中、ASEAN諸国の間では「海上プレゼンスの象徴」として、空母級の艦艇を保有することの政治的・戦略的価値が再評価されている。インドネシア海軍は新たに強襲揚陸艦の導入を進め、フィリピンも大型揚陸艦の計画を推進している。タイとしても、地域における海上勢力のバランスの中で「空母保有国」という独自の地位を維持することは、一定の政治的・外交的価値がある。
チャクリ・ナルエベトの改修は、単なる老朽艦の延命措置ではなく、タイ海軍の指揮通信能力、ヘリコプター運用能力、UAV管制能力など、将来の統合的な多任務に対応するための基盤整備と位置づけられる。再び固定翼艦載機を離着艦させる「空母」に戻ることはなくとも、チャクリ・ナルエベトはタイ王立海軍のシンボル艦として、地域の海軍力の一翼を担い、その存在感を再び高めようとしている。
